STORY. 5

サプライズパワー
~懸命に走り続けたスターホース~

文・村上 英明


協力・多田 圭治 厩務員/佐藤 裕太 調教師

サプライズパワーは2歳の夏、ホッカイドウ競馬の鈴木英二厩舎からデビュー。96年北海道3歳優駿(現・北海道2歳優駿)3着後、南関東のクラシック戦線を目指し、当時売り出し中だった船橋・川島正行厩舎に転厩してきた。

川島正行調教師は船橋競馬所属ジョッキーとして、地方競馬通算786勝をマーク。87年に引退し、90年に調教師免許を取得。開業当初はわずか5馬房からのスタートだったが、92年にはキタサンテイオーで平和賞を制して重賞初制覇。その後も順調に実績を重ね、93年にはモガミキッカでダイオライト記念を勝ち、94、95年にはサクラハイスピードで東京盃を連覇。早くからトップトレーナーとしての頭角を現していた。なかでも、前述のモガミキッカやサクラハイスピードのように、中央競馬で頭打ちになった馬を見事に立ち直らせる技術にたけて、それは〝川島再生工場〟とも呼ばれた。

その後もネームヴァリュー(03年TCK女王盃、帝王賞)、アジュディミツオー(04、05年東京大賞典、06年川崎記念、かしわ記念、帝王賞)、シーチャリオット(05年羽田盃、東京ダービー)、フリオーソ(06年全日本2歳優駿、07年ジャパンダートダービー、08、10年帝王賞、11年川崎記念、かしわ記念)、マグニフィカ(10年ジャパンダートダービー)、クラーベセクレタ(11年羽田盃、東京ダービー、クイーン賞)など、それぞれ各時代の地方競馬を代表するダート界の名馬を数多く育て、〝川島最強軍団〟の名をとどろかせた。

悲願だったJRAでの勝利はならなかったが、「条件クラスを使えばいつでも勝てるけど、オレが狙っているのはGIだからな」とこだわりを持ち続けていたのも〝闘将〟と言われたる所以だ。05年には、アジュディミツオーで地方競馬所属馬として初のドバイ遠征(ドバイワールドC6着)も敢行。NARグランプリで9度(94、00、02~08年)の最優秀調教師賞、4度(09、10、12、13年)の最優秀賞金収得調教師賞を獲得するなど、常に第一線で活躍してきた。

パドックでの引き手のスーツ着用をはじめ、次から次へと新しいモノを導入するなど、地方競馬の活性化にも努めてきた。千葉県調教師会会長として、今日の船橋ハートビートナイター開催実現にも尽力。そのオープニング(15年6月)を見ることなく、14年9月、66歳の若さで亡くなったのは悔やまれる。

ライバルの出現と
クラシック二冠制覇への道のり

だいぶ横道にそれたが、話をサプライズパワーに戻そう。

サプライズパワーは、川島厩舎入厩と同時にオーナーが舛添要一氏(のちの東京都知事)に代わり、厩舎の主戦で南関東を代表するトップジョッキー・石崎隆之騎手とコンビを結成した。危なげのないレースぶりで地元・船橋の条件特別を連勝。続く大井の準重賞・雲取賞(現在は重賞)も完勝し、土つかずの3連勝で期待通り、97年のクラシックロードへと弾みをつけた。

しかし、ここで強敵が現れた。デビューから無傷の3連勝で京浜盃を制した大井のキャニオンロマン(飯野貞次厩舎)だ。初顔合わせとなったクラシック前哨戦・黒潮盃で1秒差の2着に完敗すると、続く1冠目の羽田盃では、直線でのマッチレースに持ち込んだものの、最後に突き放されて0秒6差の2着と敗れた。ちなみに3着以下は4馬身離れた。

生まれてきた時代が悪かったのか・・・?

ところが羽田盃直後に、その〝天敵〟キャニオンロマンに骨折が判明。長期休養を強いられるアクシデントに見舞われた。となれば、もう怖いものはいない。当然のように、2冠目の東京王冠賞(2000m。80~95年まで秋2600mで行われていたが、96年から3冠全てを春に施行するアメリカンスタイル導入で春へ移行。99年ジャパンダートダービー創設に伴い、01年に休止)、さらに東京ダービー(当時は2400mで施行)でも敵なしの独壇場となり、ともに1番人気に応え、目標としてきたクラシック2冠を奪取。最大ライバルの離脱は残念だったが、陣営はホッと胸をなで下ろしたことだろう。

写真:サプライズパワー

相棒の爪と向き合いながら
支え続けた陣営

サプライズパワーを担当したのは、厩舎開業時からスタッフに加わり、川島正行調教師の信頼厚く、数多くの名馬を手がけてきた多田圭治厩務員(現・川島正一厩舎)だ。

「いい馬だったよ。ただ、最後の最後まで爪が悪くてね。ずっと裂蹄に悩まされてきたんだ。いろいろケアをしながら、だましだましレースを使っていたけど、すぐに(患部が)割れてしまってね。もう大丈夫かなと思っていると、また駄目で…。テープできつく固定したり…ホントにだましだましだった。その繰り返し。とうとう最後まで治ることはなかったね」
と当時を振り返る。それこそ寝る間も惜しんで、黙々と相棒の〝爪〟と向き合ったという。
「そんな状態でも、あれだけ走ってくれたんだからね。まともだったらなぁ…と思うよ。すごく苦労させられたけど、頑張って走ってくれた。感謝しているんだ」
と遠くを見つめながら、ほほ笑みを浮かべた。

調教を担当したのが、厩舎所属でデビュー5年目を迎えていた佐藤裕太騎手(現・調教師)だった。
「とにかく次元が違ってましたね。賢くてすばらしい馬でした。クッションが効いて、すごく乗りやすかったのを思い出します」
今でも鮮明に、その乗り味のすばらしさを覚えている。
「自分でコンディションを調整できる利口な馬でした。ただ、脚元(爪)が悪くて、厩務員さんはずいぶんと苦労されてましたね。自分もそれこそ付きっ切りで、ケイコに乗りましたよ。朝は馬場入り前の運動を30分、ケイコを終えたあとの上がり運動を30分。午後も1時間の乗り運動をじっくりと。とにかく距離を長め長めに乗っていたのを覚えています。ハードな調教にも頑張ってくれましたね」と懐かしんだ。

東京ダービー後は、アフター5スター賞で古馬も撃破。秋にはJRA・ユニコーンS(現在は6月に実施)に挑戦。しかし、タイキシャトルの12着と惨敗、その後にヒザの骨折が判明し、1年余の長期休養を余儀なくされたのはもったいなかった。それでも復帰後は大きなケガもなく、99年かしわ記念、00年日本テレビ盃(ともに当時はGⅢ)と、地元・船橋でのJRA交流重賞を2勝。JpnⅠでは、99年帝王賞での同世代メイセイオペラ(岩手所属)の2着が最高で、ビッグタイトルには届かなかった。それでも5年連続で重賞制覇をするなど、息の長い活躍で8歳まで走り続けた。通算47戦18勝(JRA交流2勝を含む重賞11勝)。総収得賞金は5億1276万5000円。

02年の帝王賞6着を最後にJRAの戸田博文厩舎へ移籍したが、ケガもあって1走もすることなく、静かに現役を退いた。北海道門別の高橋牧場で種牡馬となったが、3頭の子どもを残したのみ(競走馬登録は2頭。牡馬のジョウショーエビス【37戦1勝】、牝馬のベビードール【1戦0勝】)で、11年に種牡馬を引退。その後は同新冠の村上欽哉牧場に移り、功労馬として余生を過ごしていたが、22年8月、老衰のため波乱に富んだ馬生を終えた。28歳だった。

「心臓が抜群にいい馬でね。一生懸命過ぎるくらいに一生懸命走る馬だった。だいぶ苦労もさせられてきつかったけど、いろいろ楽しませてもらったよ」と多田さん。

爪の痛みに耐え続けながらも、愛情あふれるスタッフに囲まれ、黙々と競走馬生活を全うしたサプライズパワー。船橋が育てた名馬の一頭だ。

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Writer

村上英明(デイリースポーツ)

村上英明(デイリースポーツ)

1989年の秋に地方競馬(主に南関東)を担当。1994年の夏から中央競馬も担当。現在は〝二刀流〟でJRAと地方競馬に従事。